Sunday, December 7, 2014

バンドゥンで生きる日本人01:KMG(釜我昌武)

プロフィール

1982年東京生まれ。工学博士。東工大、千葉大での研究に明け暮れる学生生活の後、株式会社東芝の中央研究所にパワーエレクトロニクス・パワー半導体の研究者として入社。約1年半で退社し、2012年に単身インドネシア・バンドゥンに飛び込む。電気電子工学や日本語を教えながら、ローカルの人々と濃厚に絡みつつ、外国人として海外地方都市とどういう関わりを持つことができるのかを模索しながら爆進中。

個人ページ:Masamu Kamaga, Ph.D






インタビュー(インタビュアー:いぬまむつみ、2014年、バンドゥンにて)

-バンドゥンでは、街のイベントに行けば知り合いだらけ、最も読まれているローカル紙に三回も取材を受けるなど、もう有名人の釜我さんですが、もともと研究者として日本で順風満帆の人生を送っていたんですよね。どうしてインドネシアに来ることにしたんですか。

日本全体、もしかしたら今の資本主義社会全体に対してかもしれませんが、強い閉塞感を抱いていたのが一つですね。良い大学、良い会社に入って、そして結婚して定年まで働いて、その後は年金で生活して、という実際にそんなモデルはないけど、その枠にはまってなきゃいけないような窮屈さがずっと嫌でした。

もう一つは、私が修士課程の学生だったときのことなんですが、国際会議でアメリカ人が私の研究分野を軍のために使うと発表しているのを聞いたこともきっかけです。私は電気という観点からエネルギーをもっと安全・クリーンに使うことを目標に、一生懸命技術の仕事やっていたつもりだったので、激しく違和感を抱いてしまって。技術はしょせんツールに過ぎなくて、人間が、社会が、技術をどう使うかしっかり考えなきゃいけない。こういう状況の中で、このまま直接的に技術だけに関わっているような生き方だけで本当に良いのだろうか、という不安がずっとありました。
以上の2点が相まってちょっと今までとは違ったことをしてみようと思ったんです。

-なるほど。


でも仕事を続けたままだとなかなかその枠から抜け出せない。そして、日本で同じ環境にいてもあまり刺激がない。今まで日本で29年間、先進国に長く住んできたので、次は新興国のどこかの街でこれまで考えたことがなかったような新しい経験ができたらいいなと漠然と考えていました。

そして、2010年の年末に有給をとってベトナムに行きました。「新人なのに年内の最終日まで出勤しないのはまずいよ?」などと先輩から言われましたが、人生は一度きりですからね。ベトナムでは、ハノイやホーチミンといった大都市ではなく、フエやダナンといった小さな都市を周遊し、唐津周平さん、川村泰裕さんという猛者たちと出会いました。彼らは日本の企業でリストラされた後、縁あって、自分たちで仕事を創る、それもベトナムという異国の地で!という大変刺激的な取り組みをしていた人たちだったんですが、自分なりにどうやって生きていったら良いのかを考えながら、日々自らの道を創っていっている彼らの姿を見て感銘を受けました。「うわー、これやりたい!」って。彼らの生き様を間近で見て、「あまり物怖じせずに、勢いでどこかに飛び込んでみても、何とか生きてはいけるものなのかもしれないな」と思うようになりました。
それからはウズウズして仕方がなくて、仕事に区切りをつけて2011年の9月に退社しました。

-もったいないとは思いませんでしたか。


東芝の先輩方、同期もみんな人間的にも尊敬できるところがあってとても良い環境でしたし、もちろん技術の仕事自体も好きで、結構頑張って論文出したり、学会で発表したり、特許を取ったりもしていたんですけど、この先20年、30年とこの仕事していても目新しいものはないのかもしれない、と若干諦めている部分もありました。新しいことがしたいという気持ちがとても強かったです。だから、もったいないという気持ちはあまり感じませんでした。


-どうしてバンドゥンだったんですか。


会社を辞めてから、拠点探しのために、アジア諸国を実際に自分の足で回っていたとき、バンドゥンに出会いました。涼しくて食べ物も美味しくて、「なんだか肌に合うなー」と。何よりも女性が可愛くて、そして優しいし(笑)直感的に「ここだ!」と思って腰を据えることに決めました。後になって、バンドゥンはインドネシア中からクリエイティブな人たちが集まる街なんだと分かりました。お金を稼ぎたい人はジャカルタに行くけど、バンドゥンはやりたいことをやりたい人たちが集まる街なんです。だから、最初に直感的に「ここは他と違う。うまく説明できないけど、絶対に面白い!」と感じたんですね。




-釜我さんのすべてからバンドゥンが好きだって想いが伝わってくるんですが、バンドゥンの人々の釜我に対する人気もすごいですよね。今に至るまで一体バンドゥンでどんなことをしてきたんですか。


別に変なことはしていませんよ(笑)というか、言うほど人気ないですよ。ごく一部に熱狂的なファンはいますが(苦笑)私のバンドゥンでの生活は、まずバンドゥンのパジャジャラン大学という国立大学でインドネシア語留学をすることから始まりました。ただ実際には大学に行くよりも、インドネシア人の友人を作っては彼らといっぱい遊ぶことに精を出していました。


-遊んでいた、というと。


インドネシア人の日本語の先生の手伝いをしたり、アジア・アフリカ会議博物館という博物館で教育に携わるボランティアをしたり、ラジオに出演したり、書道の経験ないんですけど書道の先生をしたり、日本語スピーチコンテストなどの審査員をしたり。最初の一年は自分に何ができるのかわからないので、とにかくボランティアで日本人としてできることならとことんやろうと思いました。そうするうちにいろいろなネットワークができて、それが今の基礎になっています。

バンドゥンに長く住みたかったので、自力で就職活動もしました。いろいろな大学に履歴書を持参して飛び込み訪問しました。日本語か電気電子工学の教師をやらせてほしいと頼んで。今はバンドゥンにある著名私立大学で電気電子工学の講師として雇われ、就労ビザを取得し、滞在しています。
最近はインドネシア人の仲間たちとバンドゥン版「恋するフォーチュンクッキー」の動画を作ったり、「バンドゥンポータル」という日本語のバンドゥン紹介サイトを立ち上げたりしました。バンドゥン市の観光局と一緒に日本語ガイドブックを作ったりもしました。こういう活動をしているうちにバンドゥン市長などともよく会うようになったんですよ。インドネシアで3番目に大きな街で、人口250万人規模の街の市長なので、我ながら驚きです。直近ではその仲間たちと10月にバンドゥン-ジャパンフェスティバルというイベントを作りました。準備には1年間ぐらいかかりました。たった1日限りのイベントだったのですが、1万5千人以上の来場者がありました。

-多種多様ですね!釜我さんは何をしている人かと一言で説明するのは難しいですね。


自分でも自分がしてきたこと全部は把握していません(笑)。でも、私がやっていることは方法論が違うだけで、いずれの活動も、「一人の外国人として、バンドゥンがもっと良い街になるお手伝いをしたい!」というのが根っこにあります。初めは自分でバンドゥンのことを発信するだけ。相手に何も求めないから、誰にでもできますよね。でもだんだんこうすればもっとプロモーションできるのに!と不満が出てきて、現地にアクションを求めるようになる。そしてバンドゥンポータルやバンドゥン-ジャパンフェスティバルといった企画に至ったわけです。




-すべてゼロの状態から自分のすべきことを見つけていくのってすごく難しいと思うんですが。


どうなんでしょうか。あまり難しく考えず、自分を解き放てばいいんです。言い換えると、楽しいことをやればいいんだと思います。楽しいことが何かわからないなら、何でもいいから物怖じせずにできることをとことんやる。動き始めてみると何がやりたいかわかってくる。それがわかればどんどんやれるし、そして楽しくもなってくると思うんですよね。

実は昔、25、6歳の頃、博士2年目で全然成果が出ていなくて。焦って半ば鬱になっていたこともあったんですが、そのときにもそうやって乗り越えました。

-釜我さんにもそんな時期があったんですね(笑)最後に、どんな人にバンドゥン-ジャパンハウスに来て欲しいと思いますか。


人生に詰まったら、詰まり過ぎる前に来て欲しいと思います。今の世の中、自分の人生に対して不安を持ってない人っていないと思います。特にアラサ―世代は多いのではないかな、と思います。私は、その不安を解決する方法として、まずは違う人生を見ることが良いのではないかと思っています。その結果、今の自身の生き方がやっぱり良いと思い直しても良いと思うし、やっぱり違う道があるなと思って別の道に向かって歩み出しても良いと思うんです。ただ、モヤモヤと悩んでいるだけでアクションを起こさないのは本当にもったいないと思うので、もし今の人生「このままで本当にいいのかな?」と疑問を持ち迷っていて、ちょっと海外に出かける余裕があるのでしたら、ぜひお越しいただきたいと思います。このバンドゥン-ジャパンハウスは、様々なバックグラウンドを持ち、日々新しい挑戦に励んでいる日本人の溜まり場みたいなところだから、刺激になりますよ(笑)







インタビュアー&ライター:いぬまむつみ(23)

記者志望の女子大生。色黒で濃い顔ゆえ、幼少のころから東南アジアの国の人だと間違えられること多数。先日は日本でインドネシア人の女の子に日本語で道を聞かれ、案内した後に「日本語上手だね~」と褒められる。至極丁寧に道案内したにも関わらずインドネシア人に間違えられていた模様。でも悪い気はしない!インドネシア大好きです!