Tuesday, December 30, 2014

バンドゥンで生きる日本人03:Yasukemu(宮下育之)

プロフィール

1979年千葉生まれ、埼玉育ち。就職氷河期である2002年に大学を卒業するも、就職せずにフリーターとなり、その後正社員として5社で勤務。転職や社会保証労務士としての人事業務を経験したことから、キャリア形成や少子高齢化による介護労働者の不足の問題に関心を持つようになる。特に外国人介護士・介護福祉士の受け入れについて興味があり、会社を退職して2014年よりインドネシア語留学中。最近彼女ができたのではないかとバンドゥン-ジャパンハウスの住人に疑われている(本人談:「残念ながらそれはないです・・・苦笑」)

インドネシア情報サイト『すかSUKI』

30代半ばからのインドネシア留学記






インタビュー(インタビュアー:いぬまむつみ、2014年、バンドゥンにて)

-大学でインドネシア語を学ぶ傍ら、インドネシア全土を飛び回っていらっしゃるそうですが、一体何をしていらっしゃるんですか。

地域の大学を訪ねて日本語を勉強している人たちの環境を見て回っています。日本人の日本語の先生はいるのかとか、どの程度日本語ができるのかとか。先日行った大学は日本の大学の協定校がありませんでした。また、大学訪問の際は、日本語を勉強している学生を「すかSUKI」というサイトのメンバーになってもらえるようスカウティング活動もしています。

「すかSUKI」って?

2014年6月に立ち上げた日本語でインドネシアのことを発信するウェブサイトです。インドネシア人にとっては日本語を実践練習することができ、日本人にとっては広いインドネシアのそれぞれの地域のローカルな情報知ることができるサイトをつくりたいと思い、立ち上げました。現在メンバーは120人くらいいいます。

-確かに、インドネシアの地方に関する情報って日本語ではあまりないですよね。どうしてこのような活動をされているんですか?

もともと日本での介護人材不足の問題に興味を持っていて、いろいろ調べている中でEPA(経済連携協定)によってインドネシア、フィリピン、ベトナム(2014年~)から介護士、看護師候補者の受け入れが始まっていることを知りました。特に、インドネシアは日本語学習者が世界第2位と知って驚きました。「日本が好きで日本語もできる彼らを日本が受け入れることができたら双方にとってハッピーなんじゃないかな」と考え、日本で働いた経験を活かして何かできないかと思ってインドネシアに来ました。
来てみると、勉強したことを活かせていない日本語学習者が非常に多いことがわかったんですね。彼らは日本にとって重要な人材になり得るし、彼らの中にももっと日本語を活かしたいと考えている人は多いと思います。お互いニーズのあるインドネシアと日本を繋げる活動をしたいなと思い、この企画を始めました。でも、継続的に記事を書いてくれるインドネシア人はなかなかいないし、現時点でライターに給料は払えないし、まだ読者は少ないし、何もかも手探りです(笑)



-まだまだ発展途上のプロジェクトなんですね。インドネシアに来る前に日本で5回転職した経験があるそうですね。

はい。大学生の頃は就職のことを本当に何も考えていなくて。当時やっていたアルバイトの給料がよかったので就職せずにそのまま続けていました。そして仕事に使えそうだと思って宅地建物取引主任者の資格を取り、不動産業者で働きましたが半月で退社しました。

-半月で。

「辞めグセがつくぞ」と当時の上司に言われましたね。次にまた不動産業者で営業をして、8ヶ月で退社。これまでの人生で一番悩みました。自分は何がしたいのか、何ができるのか、何もできないんじゃないかって。そして働くことについて調べていくうちに社会保険労務士の存在を知りました。何かのきっかけをつくらなきゃと思って社労士の資格のために猛勉強。8ヶ月間でなんとか合格しました。今自分はこれしかできない、これをやるしかない、と思っていたので集中できたのが良かったのかもしれません。
それからハローワークに行って卸売会社に就職。小さな会社だったのでほとんどすべての人事部の仕事を任されました。そのとき、リーマンショックが起きて、大学生の就活が一気に厳しくなり、会社の業績にも影響が及ぶのを目の当たりにしました。直接的ではなくても、間接的にも世界は繋がっているんだな、と肌で感じ、それをきっかけに地道に英語を勉強し始めました。
同時に労務管理の仕事に興味を持ち始めていたので、知り合いに誘っていただいた社会保険労務士事務所に転職しました。その頃ITが発達してtwitterやfacebookなどのSNSが流行りだしていて、ITを活用していかないと生き残れない時代になってきていたんですけど、事務所は新しいことを始めるのにちょっと保守的でした。英語も使いたかったのですが、その事務所で使う可能性は全く無く次のステップに進むことにしました。
そしてITを活用して外資系企業にも顧客をもつBPO業務を行っている会社に転職し社会保険手続の担当をしていました。そこがなかなか激務で、一年やってみてこのような仕事のスタイルは40歳、50歳になったらできないな、と思いました。すぐに英語を使う機会もなさそうだったので退職を決め、海外就職も視野に入れて、まず語学留学することにしました。



-それで、先ほどお話して頂いた興味関心からインドネシアにきたんですね。それぞれの職場での経験とそこで身につけたスキルが、ちょっとずつ繋がって今に至るのがわかった気がします。最後に、どんな人にバンドゥン-ジャパンハウスに来てもらいたいですか。

日本で働いていて、悶々と「どうしようかなー」と考えている人にぜひ来てもらいたいです。私の世代は会社を辞めることを考えるのがなかなか難しいと思います。振り切ってしまった人たちがどういう考えでどうしているのか、知ってもらう機会になればいいですね。会社を辞めなくても国内転職でも、結果は何でもいいんですけど、考えているだけで前に進めない状況から、自分なりの答えを出すきっかけになればと思いますので気軽に来て欲しいです。参考になるお話は必ずあると思いますから。何より私の話を聞いたら、こんな人もいるんだから大丈夫、と安心してもらえると思います(笑)










インタビュアー&ライター:いぬまむつみ(23)

記者志望の女子大生。色黒で濃い顔ゆえ、幼少のころから東南アジアの国の人だと間違えられること多数。先日は日本でインドネシア人の女の子に日本語で道を聞かれ、案内した後に「日本語上手だね~」と褒められる。至極丁寧に道案内したにも関わらずインドネシア人に間違えられていた模様。でも悪い気はしない!インドネシア大好きです!

Thursday, December 25, 2014

バンドゥンで生きる日本人02:金井雅人

プロフィール

1967年群馬県高崎市生まれ。米国ピッツバーグ大学言語学科卒業後、7年ほど日本で英会話教室を開く。紆余曲折を経てサンフランシスコのLife Chiropractic College WestにてDoctor of Chiropracticの学位を取得。2012年よりバンドゥンで唯一の日本人カイロプラクターとして奮闘中。毎日15キロくらい歩くのが日課。趣味はギター。スーパーマーケットの値段を比較してしまうなど主婦的一面も。




インタビュー(インタビュアー:いぬまむつみ、2014年バンドゥンにて)

-素晴らしいキャリアをお持ちの金井さんですが、英会話の先生からカイロプラクターへ大転換したのはどうしてでしょうか。

英会話教室は当時結婚していた女性と経営していたんですが、離婚をきっかけに躁鬱になっちゃって。1ヶ月ベッドに寝たきりで起きられなかったり、心の啓発本とかを読むと逆にイライラして、その本を壁ぶつけたりとかなり荒れていました。そのとき母親がどこかからカイロプラクティックの情報を仕入れてきたんです。カイロプラクターの方に首をパキっとやってもらったとき「おおお!」と目覚めたような気持ちになりました。

-へええ!

それから、心療カウンセラーをやっている友達の母親に、何も考えずにとにかく歩けとアドバイスされ、初めは家の周りの1ブロック、次は2ブロック、ってどんどん距離を伸ばして歩くようになりました。そうやって歩いているときに、たまたま立ち寄った本屋の旅行雑誌でグレート・バリア・リーフの写真を見て「これを見ずに死ねないな」と思った。だんだん気持ちが明るくなってきて、これから人生どうしようと思ったときに、カイロかな、と。
それで東京のカイロの専門学校に、夜間ですが2年通いました。このときすでに34歳。もう若くない。病気も完治していなくて、皆ができて自分にできないことがあると、自分はダメなんじゃないかと思って学校帰りの電車で泣いたこともありました。

-34歳のおっさんが電車で泣いていたわけですか。

そうです(笑)なんとか卒業して、もうちょっとカイロを勉強したいと思って海外の学校を探し始めました。身辺整理もしなきゃいけなかったので準備には1年くらいかかりましたが、また人生が開けそうだと感じ、ウキウキしていました。当初はオーストラリアの学校に行こうと決めていたものの、途中で方向転換してカイロプラクティック誕生の地、アメリカに行くことにしました。4年制の大学はペンシルバニア州のピッツバーグという大変寒い所だったので、今度は暖かい所にしようと、反対側の西海岸のサンフランシスコを目指しました。ただ、ピッツバーグ大学では言語学専攻の文系だったため、サンフランシスコの小さな学校でまず大学の理系科目を履修し、1年後にやっとカイロの大学へ入学が認められました。大学の勉強はきつくて病気が再発することもあったけど、友人やホームステイ先の家族に助けられました。4年後の42歳のとき、無事卒業して晴れてカイロプラクターになりました。



-長い長い道のりだったんですね。バンドゥンに来られたのはどうしてですか?

大学卒業後、しばらくアメリカを放浪していたとき、大学の後輩にインドネシアで働かないかと誘われました。アメリカで働くつもりだったんですけど、いいや、行っちゃえ~と。半年ほどジャカルタで働いて、次はバンドゥンに行ってくれと頼まれたので、2012年2月にここに来ました。



-もともとバンドゥンに来るつもりはなかったんですね。バンドゥンに来てよかったと思いますか?

最初は道や川は汚いし、道路事情や交通事情が悪くて歩行者に優しくないし、雨が多いし、財布をスラれたりして、バンドゥンに対して正直良い印象はありませんでした。それでも街を一通り歩き周り、色々分かってきて、じわじわとバンドゥンの良さを感じています。涼しくて人が優しくて過ごしやすいところはもちろん、街がコンパクトで、人口250万人もいる都市なのに田舎の良さを残しているところが好きです。こっちでは日本みたいに一斉に田植えをするのではなくて、一方の田んぼで田植えをしていれば、他方で稲刈りをしているなど、バラバラなんですよ!田んぼに囲まれて育ったので、青田と黄金色の稲穂を同時に見るのは新鮮で面白いです。
あと不思議とギター製作家が多いですね。田んぼを歩いていたらギターを作っているおじさんに出くわしたり(笑)。バンドゥンは音楽が盛んな街ですが、こっちの人はギターが高くてなかなか買えないから、一種の反骨精神で、自分たちで造る技術を身につけたんじゃないかな。そういうのを知ると、ギター好きの自分はバンドゥンに呼ばれた感じがします。



-呼ばれた感じがするって、なんだかロマンチックですね。最後にお聞きしたいんですが、しんどい状況を抜け出すヒントってなんだと思いますか。

人と関わることだと思います。自分より優れた人と知り合うと、自分の小ささを覚えて、悩みなんてだんだんどうでもよくなってしまいます。カイロを通してすごいなーって思う人にたくさん出会いました。このバンドゥン-ジャパンハウスのみなさんもそうです。僕より一回り以上年下の人もいるけど、皆人生経験豊富で、僕なんか一番ペーペーです(笑)。みなさんを通してインドネシア人の友人もたくさん増えて、本当に楽しい思いをさせてもらっています。









インタビュアー&ライター:いぬまむつみ(23)

記者志望の女子大生。色黒で濃い顔ゆえ、幼少のころから東南アジアの国の人だと間違えられること多数。先日は日本でインドネシア人の女の子に日本語で道を聞かれ、案内した後に「日本語上手だね~」と褒められる。至極丁寧に道案内したにも関わらずインドネシア人に間違えられていた模様。でも悪い気はしない!インドネシア大好きです!

Sunday, December 7, 2014

バンドゥンで生きる日本人01:KMG(釜我昌武)

プロフィール

1982年東京生まれ。工学博士。東工大、千葉大での研究に明け暮れる学生生活の後、株式会社東芝の中央研究所にパワーエレクトロニクス・パワー半導体の研究者として入社。約1年半で退社し、2012年に単身インドネシア・バンドゥンに飛び込む。電気電子工学や日本語を教えながら、ローカルの人々と濃厚に絡みつつ、外国人として海外地方都市とどういう関わりを持つことができるのかを模索しながら爆進中。

個人ページ:Masamu Kamaga, Ph.D






インタビュー(インタビュアー:いぬまむつみ、2014年、バンドゥンにて)

-バンドゥンでは、街のイベントに行けば知り合いだらけ、最も読まれているローカル紙に三回も取材を受けるなど、もう有名人の釜我さんですが、もともと研究者として日本で順風満帆の人生を送っていたんですよね。どうしてインドネシアに来ることにしたんですか。

日本全体、もしかしたら今の資本主義社会全体に対してかもしれませんが、強い閉塞感を抱いていたのが一つですね。良い大学、良い会社に入って、そして結婚して定年まで働いて、その後は年金で生活して、という実際にそんなモデルはないけど、その枠にはまってなきゃいけないような窮屈さがずっと嫌でした。

もう一つは、私が修士課程の学生だったときのことなんですが、国際会議でアメリカ人が私の研究分野を軍のために使うと発表しているのを聞いたこともきっかけです。私は電気という観点からエネルギーをもっと安全・クリーンに使うことを目標に、一生懸命技術の仕事やっていたつもりだったので、激しく違和感を抱いてしまって。技術はしょせんツールに過ぎなくて、人間が、社会が、技術をどう使うかしっかり考えなきゃいけない。こういう状況の中で、このまま直接的に技術だけに関わっているような生き方だけで本当に良いのだろうか、という不安がずっとありました。
以上の2点が相まってちょっと今までとは違ったことをしてみようと思ったんです。

-なるほど。


でも仕事を続けたままだとなかなかその枠から抜け出せない。そして、日本で同じ環境にいてもあまり刺激がない。今まで日本で29年間、先進国に長く住んできたので、次は新興国のどこかの街でこれまで考えたことがなかったような新しい経験ができたらいいなと漠然と考えていました。

そして、2010年の年末に有給をとってベトナムに行きました。「新人なのに年内の最終日まで出勤しないのはまずいよ?」などと先輩から言われましたが、人生は一度きりですからね。ベトナムでは、ハノイやホーチミンといった大都市ではなく、フエやダナンといった小さな都市を周遊し、唐津周平さん、川村泰裕さんという猛者たちと出会いました。彼らは日本の企業でリストラされた後、縁あって、自分たちで仕事を創る、それもベトナムという異国の地で!という大変刺激的な取り組みをしていた人たちだったんですが、自分なりにどうやって生きていったら良いのかを考えながら、日々自らの道を創っていっている彼らの姿を見て感銘を受けました。「うわー、これやりたい!」って。彼らの生き様を間近で見て、「あまり物怖じせずに、勢いでどこかに飛び込んでみても、何とか生きてはいけるものなのかもしれないな」と思うようになりました。
それからはウズウズして仕方がなくて、仕事に区切りをつけて2011年の9月に退社しました。

-もったいないとは思いませんでしたか。


東芝の先輩方、同期もみんな人間的にも尊敬できるところがあってとても良い環境でしたし、もちろん技術の仕事自体も好きで、結構頑張って論文出したり、学会で発表したり、特許を取ったりもしていたんですけど、この先20年、30年とこの仕事していても目新しいものはないのかもしれない、と若干諦めている部分もありました。新しいことがしたいという気持ちがとても強かったです。だから、もったいないという気持ちはあまり感じませんでした。


-どうしてバンドゥンだったんですか。


会社を辞めてから、拠点探しのために、アジア諸国を実際に自分の足で回っていたとき、バンドゥンに出会いました。涼しくて食べ物も美味しくて、「なんだか肌に合うなー」と。何よりも女性が可愛くて、そして優しいし(笑)直感的に「ここだ!」と思って腰を据えることに決めました。後になって、バンドゥンはインドネシア中からクリエイティブな人たちが集まる街なんだと分かりました。お金を稼ぎたい人はジャカルタに行くけど、バンドゥンはやりたいことをやりたい人たちが集まる街なんです。だから、最初に直感的に「ここは他と違う。うまく説明できないけど、絶対に面白い!」と感じたんですね。




-釜我さんのすべてからバンドゥンが好きだって想いが伝わってくるんですが、バンドゥンの人々の釜我に対する人気もすごいですよね。今に至るまで一体バンドゥンでどんなことをしてきたんですか。


別に変なことはしていませんよ(笑)というか、言うほど人気ないですよ。ごく一部に熱狂的なファンはいますが(苦笑)私のバンドゥンでの生活は、まずバンドゥンのパジャジャラン大学という国立大学でインドネシア語留学をすることから始まりました。ただ実際には大学に行くよりも、インドネシア人の友人を作っては彼らといっぱい遊ぶことに精を出していました。


-遊んでいた、というと。


インドネシア人の日本語の先生の手伝いをしたり、アジア・アフリカ会議博物館という博物館で教育に携わるボランティアをしたり、ラジオに出演したり、書道の経験ないんですけど書道の先生をしたり、日本語スピーチコンテストなどの審査員をしたり。最初の一年は自分に何ができるのかわからないので、とにかくボランティアで日本人としてできることならとことんやろうと思いました。そうするうちにいろいろなネットワークができて、それが今の基礎になっています。

バンドゥンに長く住みたかったので、自力で就職活動もしました。いろいろな大学に履歴書を持参して飛び込み訪問しました。日本語か電気電子工学の教師をやらせてほしいと頼んで。今はバンドゥンにある著名私立大学で電気電子工学の講師として雇われ、就労ビザを取得し、滞在しています。
最近はインドネシア人の仲間たちとバンドゥン版「恋するフォーチュンクッキー」の動画を作ったり、「バンドゥンポータル」という日本語のバンドゥン紹介サイトを立ち上げたりしました。バンドゥン市の観光局と一緒に日本語ガイドブックを作ったりもしました。こういう活動をしているうちにバンドゥン市長などともよく会うようになったんですよ。インドネシアで3番目に大きな街で、人口250万人規模の街の市長なので、我ながら驚きです。直近ではその仲間たちと10月にバンドゥン-ジャパンフェスティバルというイベントを作りました。準備には1年間ぐらいかかりました。たった1日限りのイベントだったのですが、1万5千人以上の来場者がありました。

-多種多様ですね!釜我さんは何をしている人かと一言で説明するのは難しいですね。


自分でも自分がしてきたこと全部は把握していません(笑)。でも、私がやっていることは方法論が違うだけで、いずれの活動も、「一人の外国人として、バンドゥンがもっと良い街になるお手伝いをしたい!」というのが根っこにあります。初めは自分でバンドゥンのことを発信するだけ。相手に何も求めないから、誰にでもできますよね。でもだんだんこうすればもっとプロモーションできるのに!と不満が出てきて、現地にアクションを求めるようになる。そしてバンドゥンポータルやバンドゥン-ジャパンフェスティバルといった企画に至ったわけです。




-すべてゼロの状態から自分のすべきことを見つけていくのってすごく難しいと思うんですが。


どうなんでしょうか。あまり難しく考えず、自分を解き放てばいいんです。言い換えると、楽しいことをやればいいんだと思います。楽しいことが何かわからないなら、何でもいいから物怖じせずにできることをとことんやる。動き始めてみると何がやりたいかわかってくる。それがわかればどんどんやれるし、そして楽しくもなってくると思うんですよね。

実は昔、25、6歳の頃、博士2年目で全然成果が出ていなくて。焦って半ば鬱になっていたこともあったんですが、そのときにもそうやって乗り越えました。

-釜我さんにもそんな時期があったんですね(笑)最後に、どんな人にバンドゥン-ジャパンハウスに来て欲しいと思いますか。


人生に詰まったら、詰まり過ぎる前に来て欲しいと思います。今の世の中、自分の人生に対して不安を持ってない人っていないと思います。特にアラサ―世代は多いのではないかな、と思います。私は、その不安を解決する方法として、まずは違う人生を見ることが良いのではないかと思っています。その結果、今の自身の生き方がやっぱり良いと思い直しても良いと思うし、やっぱり違う道があるなと思って別の道に向かって歩み出しても良いと思うんです。ただ、モヤモヤと悩んでいるだけでアクションを起こさないのは本当にもったいないと思うので、もし今の人生「このままで本当にいいのかな?」と疑問を持ち迷っていて、ちょっと海外に出かける余裕があるのでしたら、ぜひお越しいただきたいと思います。このバンドゥン-ジャパンハウスは、様々なバックグラウンドを持ち、日々新しい挑戦に励んでいる日本人の溜まり場みたいなところだから、刺激になりますよ(笑)







インタビュアー&ライター:いぬまむつみ(23)

記者志望の女子大生。色黒で濃い顔ゆえ、幼少のころから東南アジアの国の人だと間違えられること多数。先日は日本でインドネシア人の女の子に日本語で道を聞かれ、案内した後に「日本語上手だね~」と褒められる。至極丁寧に道案内したにも関わらずインドネシア人に間違えられていた模様。でも悪い気はしない!インドネシア大好きです!